世界選手権イギリス大会の翌週の土曜日、藤波はフランスのインドア大会に参加した。南フランスのカルパントラで開催されたもので、いわばノンタイトルのイベントだった。藤波はこれに、ボウら、いつもの世界選手権サーカスのみんなと参加した。
2ラップ制のこの大会の2ラップ目。問題のセクションはヒューム管からヒューム管に少しひねりながら飛び登る設定となっていた。ちょっとむずかしいポイントで、ボウはクリーンで抜けていたが、他の面々は足を1回つきながらマシンを持ち上げて乗せていた。危ないポイントだったので、藤波もそうしていた。もちろん2ラップ目もその予定だった。
しかしちょっとだけ勢いがよすぎたようだった。登った上には、マシン1台分のスペースしかない。勢いがついた藤波のマシンは、そのまま着地すべきスペースを通りすぎてしまった。フロントタイヤが着地するべきスペースは、すでになかった。
そのまま床まで前転して転落という状況だが、藤波は冷静に着地点を探っていた。正面には別のヒューム管がある。そこにいったん落ちて、勢いを殺して床に落ちよう。一から十まで正確に覚えているわけではないが、そんなふうに考えたのを覚えている。
ところがそこで、藤波の予期せぬ出来事が起こった。左手に巻いたキルスイッチと伸縮性のあるパンツが、どこかに引っかかっている。思ったとおりの回避行動がとれず、それでも最後まで安全に着地しようともがいたのだが、ヒューム管に横腹からたたき落ちることになってしまった。
クラッシュ直後は、息ができなかった。横腹を強打していたからだろう。しかし呼吸ができるようになってはじめて、左手がおかしいのに気がついた。動かすと違和感がある。診断をせずとも、どこかが折れているとわかる状態だった。
そのまま試合はリタイヤして、現地の病院へ向かおうとしたものの、土曜日の夜で病院までの道も混んでいる。それならもうそのまま帰ってしまおうと、スペインに帰ってきて、すぐ診察となった。舟状骨骨折という診断だった。この骨、ラガも何年か前にひびを入れて、シーズンオフに手術をしたことがある。回復は、比較的容易と思われる。
しかし問題は、今はまだ2016年のシーズン中ということだ。次の大会は、2016年世界選手権最終戦。9月3日と4日。ちょうど5週間後のことになる。
ランキング3位がかかっている大事な試合、ということもあるが、藤波には、大会を休むという選択肢はまったくなかった。厳しい戦いになるかもしれないが、やれるだけの処置をして、休むべきところはしっかり休ませ、できるトレーニングはしっかりして、最終戦に備え、最善を尽くす。どんな状況でも、藤波のやるべきことは変わらない。
すぐに手術の予定が組まれた。日曜日、月曜日に診断と処置をして、火曜日に手術。手術自体は無事に終わり、骨折箇所はギプスで固められた。骨折箇所はボルトで固定され、それで処置は完了する。あとは骨がくっつくのを待つのがふつうの骨折治療となるのだが、もちろん藤波の場合はそれを待ってはいられない。
術後、すぐに退院してきて左手以外のトレーニングなどにとりかかるも、汗をかいてはいけないということで、できることはきわめて限定的となった。骨折からの復帰なのだからそれで当然という気はするも、レプソルHondaチームの仲間であるマルク・マルケスが骨折から6日目にはサーキットに復帰したという実績もある。レーシングライダーは、ふつうの人とからだや痛みに対する神経の構造がちがうのかもしれない。
1週間、ギプスを装着して安静にしていた藤波だが、手術から1週間後、ギプスを外した。回復を計りながら、けっして無理せず、しかし最終戦イタリアでベストを尽くすべく、藤波の戦いは続いている。
この2年間、膝の負傷により、痛みと戦いながらの、本来のスタイルではないトライアルを続けてきた藤波。過去には、開幕戦直前に左で人さし指を骨折したこともあった。1ヶ月後に起こることは、そういった過去の厳しい記憶と同様のことになる可能性もあるのだが、しかし藤波は負けてはいない。人さし指骨折の時には、開幕第2戦で優勝もした。
厳しい戦いもフジガス・ヒストリーの一コマ。どのような復活劇と復活戦を戦うのか、注目してほしい。
世界選手権ランキング | ||||
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1位 | トニー・ボウ | スペイン・モンテッサ | 249 | |
2位 | アダム・ラガ | スペイン・TRS | 218 | |
3位 | 藤波貴久 | 日本・モンテッサ | 169 | |
4位 | アルベルト・カベスタニー | スペイン・シェルコ | 155 | |
5位 | ハイメ・ブスト | スペイン・モンテッサ | 148 | |
6位 | ジェロニ・ファハルド | スペイン・ヴェルティゴ | 143 |