藤波貴久、世界選手権挑戦20周年記念

2015/4/14

藤波貴久、世界選手権挑戦20周年記念

Thanks Report by Repsol Honda Team

photo4月14日、藤波貴久は世界選手権に挑戦して20年目の日を迎えた。18年間に渡りランキングトップ5、”人気の”レプソル・ホンダ・ライダーは並み居るトライアルのエリートとの戦いを続け、また母国GPと共にまた新たなシーズン開幕を迎える。

1996年と言えば、米国アトランタでオリンピックが行われた年。F1だとデイモン・ヒルがタイトルを獲得したし、2輪のグランプリでは、500ccがミック・ドゥーハン、250ccはマックス・ビアッジ、125ccは青木治親がそれぞれタイトルを獲得した年だ。他には、スパイスガールズが初のアルバムを出したとか、ロス・デル・リオがマカレナを大ヒットさせた年でもある。藤波貴久がトライアル世界選手権でデビューしたのは、そんな年だった。それから20年に渡り、トライアルのトップレベルに君臨。18年間に渡って世界選手権のトップ5という記録を打ち立て、2004年では世界タイトルも獲得。そして藤波はなお歴史を刻み続けている。

問)20年前の、世界選手権デビュー戦のことは覚えていますか?

藤)当時は、タレスやコロメ、ランプキンがヒーローで、ぼくも雑誌やビデオを見て、憧れていたものです。でも彼らのライディングを実際に見たことはありませんでした。そんなヒーローたちと自分が競える立場に立てるというのは、たいへん誇り高き、うれしいことでした。前の年、全日本チャンピオンになっていましたが、テクニック的にはまだまだなことは自覚していました。世界選手権デビュー戦は、それは惨憺たるものでした。でもそこでいろんなことを学んで、第2戦では6位に入ることができました。これは天にも昇りたい幸せでした。あの頃のぼくは、とにかく前に向かって突き進んでいて、こわいものなんかなにもなかくて、すべてを世界選手権に注ぎ込んでいた。でも最初の1年はほんとうに厳しかった。チームはぼくと父親の二人だけ、メカニックもマインダーもいなかった。他を見れば、料理担当の人さえしましたから。トップ5くらいに入れれば、自分もそういう部類に入れるのかなと思ったものでした。

問)最初の年、モンテッサにはマルク・コロメがいて、彼はその年のチャンピオンになるんですよね。

藤)その通り! ぼくとコロメは同じプロトタイプマシンに乗っていました。コロメはチャンピオンになりましたが、ぼくも最初のシーズンを、ランキング7位という、まず悪くない結果で終えることができました。16歳になったばかりでしたから、この結果は上々でした。

問)世界選手権での経験も少ない16歳ながら、翌年はトップグループでシーズンも終えた。いきなりの進歩でしたね。

藤)そうですね。でも簡単じゃなかったです。1999年にはランキング2位になりましたが、ドギー(ランプキン)はいつもぼくの上にいました。20試合の選手権のうち、ドギーは18勝するような圧勝ぶりでしたから、彼のレベルは、僕を含め、他のライダーとは桁違いでした。2003年は僕もうまく戦いドギーより勝ち星で勝りもしましたが、それでもやはりチャンピオンにはなれなかった。

問)世界選手権挑戦2年目の最終戦タールハイムで、世界選手権初優勝をしていますね。いかがでしたか?

藤)2年目のシーズンで、17歳だった。マインダーは日本から来てくれた村田慎示さんだったのですが、試合前日に事故があって病院に運ばれました。一時は意識を失うほどのひどい事故だったから、きちんと治療するために日本に帰った方が良いと伝えました。というわけで、僕をヘルプしてくれる人がいなくなってしまいました。けれど、レース当日はオスカル・ジローさん(現チームマネージャー)がマインダーをかって出てくれました。コミュニケーションはスペイン語。とは言ってもこちらは片言ですが、それでもなんだかコロメになったような気分でした。そして終わってみたら、なんとびっくり、優勝していたんです。あの時は、2位が黒山健ちゃんで、3位がタレスでした。でもその後、2勝目を挙げられるまでが、また長かった。

問)2004年、世界タイトルを獲得。日本人としてトライアルの初の世界チャンピオンという偉業です。あなたとホンダにとって、これはたいへんな成果になりましたね。

藤)はい。僕の世界選手権キャリアでは、常にホンダからは大きな力を貸してもらっています。過去には日本人の優勝というのもあったけれど、日本のホンダとしては、日本人がチャンピオンになるのは特別の意味があったんだと思います。

問)あなたは4人の世界チャンピオンとチームを共にしています。マルク・コロメ、ドギー・ランプキン、トニー・ボウ、そしてライア・サンツ。チームメイトとして、彼らについて一言ずつ教えてくれますか?

藤)マルク・コロメは、ぼくの最初のチームメイトで良い関係にありましたが、その後のドギーやトニーたちほどには、うちとけた関係までにはなれませんでした。ドギーとは、レース以外でも会ったりするし、一種の「乗りが合う」みたいな感じかな。トニーともそう。トニーは単なる友達以上の関係でしょうか。思い返しても、チームメートとトラブルになったことはなかったかも知れません。ライアも素晴らしい友人です。彼女のレベルの高さと彼女の功績の偉大さには驚かされます。

問)さて、この週末はいよいよ日本GPです。

藤)世界選手権がホームで始まるというのは、とても大きなプレッシャーがあります。その反面、日本のファンに大きな力をもらい、勝利へと押し上げてもらえるという利点もあります。ぜひともいいレースをしたいし、優勝争いができればと思っています。地元での戦いはたいへんなプレッシャーがありますが、同時に大きなモチベーションにもなります。それもあって日本では良い成績を残せているのでしょう。どんなセクションになるのかというのも分かっています。厳しく難しいものになるだろうという。しかしそういう場こそ「フジガス」スタイルが本領を発揮するところでもあるわけです。

問)フジガスというニックネームは、どうやってついたのですか?

藤)1年目、最初の世界選手権はマドリッドでした。本当にむずかしい、誰もいけない壁のようなところがありました。ぼくはそこを全開でアタックして、たったひとり壁を上り切ったんです。勢い余して、向こう側に落っこちてしまったのですが、そのとき、観客の一人に名前はなんというんだ?と聞かれました。デビューしたばっかりの無名人だったから、誰も名前を知らなかったのだと思います。フジナミだと答えると、そうじゃない、フジガスだ!と言われました。ぼくはその名前が一発で気に入ってしまって、以来、フジガスを名乗っています。

問)思い出に残っている世界選手権大会はありますか?

藤)いくつかあります。その中の一つは、アメリカです。大雨が降っていて、時間もない中で、マシンを水没させてしまいました。マシンを分解し、水を抜き、そして試合を続けて、勝ったんです。アメリカでは、いつもいい結果が出せています。日本とおんなじですね。2年前のもてぎでは、最終セクションまでファハルドと同点だと、放送で聞きました。ファハルドが減点して、ぼくにチャンスが巡ってくると、すべての観客がぼくに力をくれました。そして優勝出来ました。ほんとうに信じられない思いでした。

問)それでは20年目のシーズンも良いシーズンでありますように。

藤)20年もトライアルをやれるなんて、思っていませんでした。今ぼくは35歳です。31歳か32歳になった時、そろそろ引退すべきなのかと考えるようになりました。でもこの年になってもまだ世界選手権で活躍することができています。みんなわかってくれていますよね。ぼくはまだ年寄りじゃない!

・18年間世界選手権でランキングのトップ5を堅持
・世界選手権参加数世界一(278大会)
・世界選手権最年少優勝(17歳7ヶ月25日)
・史上2番目に若い世界選手権表彰台獲得(17歳4ヶ月12日)

トニー・ボウから

(8回の世界チャンピオン・2007年よりのチームメイト)

 私にとってフジはアイドルです。子どもの頃から、フジは憧れでした。偉大なチャンピオン経験者であり、たいへんなファイターであり、素晴らしいスタイルを持っています。すべてのライダーはフジの、常に戦い続けるという姿勢を学べきだと思っています。フジの20年間の戦いは簡単なものではなかったと思いますが、私はこれからも、毎レース、彼が20年前に走り始めた時のような情熱と共に戦っていくだろうと信じています。
 フジに出会え、彼と戦うことができ、そして今や彼の友人となれたことは私にとって本当に幸運なことです。レースでも、彼に助けてもらったシーンは数え切れません。僕らの関係はすぐ良い感じになったわけではないですが、長いつき合いの中で、少しずつ、確実に密になっていっています。ときにはふたりで大笑いもしたりね。フジは僕の知っている一般的な日本人とはなんか違うんじゃないかと思うことがあります。レースや遠征で時間を共にすることも関係の構築に役立っています。僕らはこれまでもずっと良い友情を持ってきたし、最高の思い出がいっぱいです。大笑いし過ぎて今夜は寝れそうにない、なんてこともね。

ドギー・ランプキン

7回の世界チャンピオン、2000年から2007年までのチームメイト

 大親友であり、長年のライバルだ。20年もやってるのか。びっくり。
 藤波がヨーロッパにやっていた時には、彼が私の世界選手権挑戦にこんなにじゃまな存在になるとは思わなかった。野性的で、ときに制御不能。でも常に学習し続け、誰よりもハードにトレーニングし続けてきた。
 ずっとランキング2位を続けてきて、2003年にようやくチャンピオンになれるかという時、最後の最後まで争った結果、私がチャンピオンになりました。それは結局私にとって最後のチャンピオンにもなったわけですが、レースが終わったあと、私は藤波のところに行ってみました。彼は泣き崩れていたっけ。敗れるということは彼にとってはそれだけ大変なことだった。そして2004年。藤波は固い決意で臨み、彼の夢がついに叶うことになる。
 2000年から2007年まで、7年間チームメイトとして戦って、遠征やトレーニングと、多くの時間をいっしょに過ごした。とても楽しい時間が過ごせたし、そのすべてがいい思い出となっている。
 藤波といっしょにトライアルをやったのは15年間の長きに及ぶ。ごくときどき、なにかがあったとしても、すぐにまた元通りになれた。藤波は今でもとてもハードなトレーニングをこなしていて、今なおとても強い。それもこれも、彼の決意の固さ、献身的な態度、プロフェッショナルであるところ。世界中に藤波ファンがいるのは、彼のそんなスタイルの賜物だろう。藤波貴久、もはや伝説だ。

マルク・コロメ

1996年世界チャンピオン・1996年から2000年までのチームメイト

 藤波と共に自分が世界チャンピオンを取った時のことなんて、忘れてしまいそうなほど昔のことになってしまいました。しかし彼が世界選手権に登場した時のことは忘れることができません。そう、あれは1996年。あの年こそ、私がモンテッサで世界タイトルを獲得した年でした。あの頃の彼は「タイトルを取るほどのモチベーションを自分も持てるのかどうか…」なんてことをずっと言ってたのを思い出します。
 最初の頃の彼のライディングは、とても変わっていて、とにかくスロットルを開けているという感じでした。しかしそんな彼も世界選手権、そしてヨーロッパのスタイルの走り方にすぐに合わせてきているのに気がつきました。世界の舞台にやってきたのは黒山の方が先だったのですが、藤波は若かったし、非常に積極的だった。フジガスという愛称がつけられたのは、そんなすべての必然の結果だったと思います。
 私と藤波は、同じモンテッサに乗っていましたが、そんなに密接な関係ではありませんでした。しかし彼はトライアルというスポーツと、パドックの雰囲気に非常によく溶け込んでいました。とりわけ、彼がカタルニア語をどんどんマスターしていくのには驚かされました。藤波のトレーニングのハードさは私も同感。誰よりもハードなトレーニングをこなしていました。彼は痛みやハードなトレーニングに耐える、ものすごく強い能力を持った男なんです。

ライア・サンツ

13回の世界チャンピオン・2004年から2011年のチームメイト

 一言で言うなら、フジはとてもとても素晴らしい友人だということです。
 最初に会った時には、シャイな人に見えましたが、それは見立て違いでした。時間とともに打ち解けていき、初めてチャンピオンになり、父親になりと、人生のいろいろを経験して、フジはどんどん友好的になっていったように思います。
 アスリートとしては、ほんとうに勤勉で、ハードなトレーニングを黙々とこなしていました。ケガに苦しむ彼のことも何度となく見てきましたが、そのつど彼は痛みに耐え、ケガを克服してきました。彼は、とても楽しい人物だし、彼には敬意を払っています。フジはボウやカベスタニーのように、生まれた時からの才能に恵まれた人ではないかも知れません。それでも長年にわたって最高位の戦いを続けています。長年の間に周りのライダーの世代もかわり、走りのスタイルやルールも変わってきましたが、それでもなお彼は強さを発揮し続けています。私の家の居間には、私の宝物、サイン入りのフジのヘルメットが飾ってあるんですよ。おめでとう! フジ